こんにちはmiuです。
箱根駅伝ファンであれば、櫛部静二という名前を知らない人はいないでしょう
日本長距離界の若きエースは、五輪出場の夢は叶えられませんでしたが、指導者として箱根駅伝に戻ってきていました。
現在は城西大学の監督として、活躍されておりますが、櫛部選手も駅伝で棄権した苦い思い出がありました。
今日は櫛部選手の過去を振り返ってみましょう
早稲田の櫛部選手が棄権した
「早稲田の! 早稲田の櫛部が、とうとう歩きだしてしまいました!」 91年1月2日、箱根駅伝で戸塚中継所を前にフラフラのランナーがテレビ画面に映し出されました。
早稲田・櫛部選手のまさかの失速の姿でした。
「左手で脇腹を押さえている。表情はうつろ。さあ、どうする。櫛部、頑張れ!あと300メートル!」 学生長距離ランナーであれば、誰でも憧れる箱根駅伝2区でのアクシデントでした。
06年のコース変更まで、最長区間(23.2キロ)であり、今でも各校のエースが集います。
1年生ながらも、そんな注目の大舞台を任されましたが、無念の失速でした。
当時の記事には、失速の理由は「直前のカゼによる下痢からの脱水症状」とありました。
しかし、事実は違いました。 その時を振り返ってみましょう
櫛部選手の失速の真実とは?
櫛部氏は現在、城西大学の准教授で、男子駅伝部の監督を務めております、
その当時の事を櫛部氏本人が振り返りました。
「3日前の12月30日、合宿所の夕食は、OBからの差し入れの、お刺身が並んだのですが、私は外食でした。
しかし私の好物だと知っていた合宿所の方が、冷蔵庫で入れておいてくださったのです。
翌朝、せっかくだからという思いもあり、2切れほど頂きました。
でもそれが失敗でした。
午前中の練習に向かう途中から嘔吐し、すぐに向かった病院で、軽い食中毒と診断され、点滴を受けました。
夜には合宿所に戻り、翌日には笑うとおなかが痛い程度まで回復しました。
レース当日、櫛部選手は想像以上に、体が軽く感じられました。
トップでたすきを受けると、快調に飛ばしました。
14キロ付近から1.5キロで、20メートル上る名所「権太坂」でも、ライバルの山梨学院大の、オツオリを上回るハイペースで駆け上がりました。
記録を見ても、10キロから15キロのタイムは、区間賞だったオツオリよりも19秒も速かったのです。
しかし、18キロ付近から体に異変を感じ出し 「レースの前に瀬古さんから『余裕を持って行け』と指示されていたのですが、思えば初めての駅伝の舞台に興奮していたり、オツオリのスピードに、プレッシャーを感じたりしていたのでしょうね。
「ハイスピードで自滅したようなものです。体が軽く感じたのも、(嘔吐と下痢で)全て出し尽くしているのですから当然ですよね」
残り3キロからの上り坂が、ランナーの明暗を分けます。
駅伝の醍醐味の一つ「ごぼう抜き」ドラマが、多く見られる地点でもあります。
くしくも失速し始めた櫛部は、3人に抜き去られたあたりから、意識が飛んでしまっていました。
顔は苦しさでゆがみ、次々と13人に抜かれ、ラスト600メートル地点で14位でした。
そこからはフラフラと左右に蛇行し、時には立ち止まり、両手で顔を覆いながらも、たすきを握りしめて歩を進めました。
その痛々しい姿は全国に中継されました。
「覚えているのは、沿道から聞こえてくる早稲田の校歌だけでした。レース後、即入院したので、映像を見る機会はありませんでしたが、高視聴率だったらしいです」
私もあの時のTV中継を見ながら、「もういい、もう充分だからからやめて!」と心の中で叫びながら、感動でもらい泣きしてしまいました。
瀬古コーチの心境は?
当時、瀬古利彦氏は早稲田のコーチ1年目でした。
瀬古氏は、「箱根駅伝『魂の疾走』」の取材時にこの場面をこう話しています。
「もう、たすきが渡らないかと思いましたね。私はテレビでしか見ていないのですが、あの衝撃的な映像に、ああいう無理をさせちゃいけないと思ったものです。個人レースなら出場させなかったのですが、箱根だからって‥‥。櫛部本人には悪いことをしてしまった」
こういう出来事はいつまでも、コーチの心の傷にもなってるんですね
駅伝選手はなんとしてでも、たすきをつなげないといけない、という使命感が非常に強いですが、脱水状態では命の危険にもさらされますので、やはり監督の判断が重要です。
駅伝で体調不良の選手が出たら、早目に棄権させるのが監督の役目ですので、今後も犠牲者を出さない事を願っております。
今日も最後まで読んで頂き、ありがとございました。
コメントを残す