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離婚

熟年離婚したい女性達!夫は「なぜ今?」と言い妻は「定年した今だから」と言う

こんにちは、miuです。

最近、若い人の離婚が増えて、ひとり親の家庭が多いですが、熟年離婚したい願望の女性も、増えつつあります。

夫は、なぜ長年連れ添って来て、定年した今なのか理解出来ない様ですが、妻の言い分は、長年ずっと我慢して来たので、もういいでしょうと言う心境です。

今迄は亭主元気で、留守だったので良かったが、定年するとず~と一緒で、3食昼寝付きで、右の物を左にもしない夫、四六時中一緒は、もう勘弁して欲しい心境の様です。

亭主関白だった夫と別れ、退職金を山分けして、自由の身になりたい様です。

サザンの歌じゃないけど「四六時中好きと言って」と甘えてた新婚時代が懐かしいですね

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後悔先に立たず

同じ別れるなら、もっと若い時の方が、良かったのではないでしょうか?

これから先は、一緒に居ると明暗が分かれると思います。

夫の介護が始まるか、自分が夫に介護して貰うか、一人になってみて、初めて解る事も沢山あります。

どこの夫婦も長い人生、一度や二度は別れたいと、思った事はある筈です。

でもこれから先、どんどん歳を重ね、身体も衰えて来ます。

そんな状態で、果たしてどこ迄一人で、やって行けるでしょうか?

後悔先に立たず、と言うことわざがあります、今一度冷静になり考えて下さい!

私の離婚事情

実は、私も自分の意に反して、結婚してわずか六年目に、離婚した苦い経験があります。

主人24歳、私22歳で恋愛結婚して、子供も授かり、幸せに暮らしていたのですが、主人が職場の人間関係で、うつになり通常の生活が営めなくなり、3歳の娘を連れて故郷に帰りましたが、本当に生活は苦しかったです。

所持金もわずかで、スキルもなく、まして田舎では働く場所もない!

近くにスーパーがあり、取りあえずそこの空きが出る迄、内職をして暮らしてましたが、なんとか半年後に、採用して貰いどうにか収入を、得られる様になりました。

抜け殻になってしまった夫

今思えば、うつの症状が出始めた頃は、口数が少なくなり、家族との接触をこばみ、会社から帰ると、食事もあまり食べず、すぐに自分の部屋にこもる様になり、だんだん会社を休む様になりました。

私に相談せずに、退職願いを提出してたのを、職場の上司が心配して、訪ねて来てくれ発覚しました。

その頃は、社宅に住んでたので、そこを退去しないといけなくなり、やむなく引っ越しをしました。

だんだん顔つきも変わって来て、被害妄想にとらわれ出したので、病院に連れて行ったところ、かなり重度のうつと診断され、途方に暮れました。

なんとか主人の病気を治したくて、話し合いをしようと試みるのですが、なかなか話がかみ合いません

私の提案は、主人の気持ちが楽になるのなら「誰も知らない遠くの土地でやり直そう」と言いました。

「今どうしたいの?」と言う私の問かけに、「一人になりたい!家族が負担なんだ」主人から返って来たこの言葉に愕然としました。

私はいつもそばに居て、一緒に病気を克服しようとしてるのに、それがかえってこの人の重荷になってると思うと、悲しくて涙が溢れました。

でも主人の為には、今したい様にさせてあげるのが、最善の方法なんだからと、自分に言い聞かせ、数週間後に、故郷に帰る事を決意し、後ろ髪を引かれる思いで、幼い娘の手を引き夜汽車に乗ったのです。

当時主人30歳、私28歳でした、娘3歳でした。

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家族のぬくもり

こうして故郷の、和歌山に帰ったのですが、主人は家族を失って初めて、がらんとした人気のない部屋で、家族はかけがえのない物だった事に気づき、淋しさのあまり戻って来て欲しいと、勝手な事を言って来ました。

主人から娘の声を聴きたいと、よく電話がありましたが、私は涙をこらえ、心を鬼にして言いました。

「もう一度3人で暮らしたいのなら、早く仕事を見つけ、病気を治してから迎えに来て頂戴!」

私も断腸の思いで別れたのですから、たとえ復縁するにしても、今戻る訳には行かないと思いました。

冷たい様でしたが、逆にその言葉が励みになったのか、それから主人は京都から、父親が単身赴任している岡山へ引っ越し、そこで就職し毎月少ない給料から、仕送りをしてくれました。

その時送金してくれたお金は、主人がどんな思いで稼いだのかと思うと、とても使う気持ちにはなれず、いつか又、家族が一緒に暮らせる様になった時に、娘が欲しがってたソファーを買おうと大切にしてました。

夫との復縁

故郷に帰り3年が過ぎ、娘の入学を控え、決断しないといけない時が、やって来ました。

このまま、こちらの学校に入学したら、多分一生主人の元へ戻る事は、ないだろうと思ったのと、母親が戻る事を反対し、縁談の話を持って来たのです。

でも私は、たとえ他の人と一緒になっても、形は違えども長い人生、きっと又困難が待っているだろうし、他の人と再婚して、娘の心を傷つけたくなかったし、仮に幸せになっても、主人の心を踏みにじった事を、後悔するだろうと思いました。

いつか娘の為に、主人の元に帰ろうと決めてたので、この先又苦労はあるかも知れないが、やはり主人と復縁しようと決心しました。

こうして不安を抱えながら、迎えに来てくれた主人と3人で、まだ見ぬ土地倉敷へ向かったのです。

それから色々あって今に至る訳ですが、あの時戻らなければ、こんなに苦労しなくてよかったのではとか、お金持ちの男性と再婚して、もっとバラ色の人生になってたのでは、と頭をよぎる事もありましたが、あの時は、あれが私に取って、最善の選択だったので、悔いはありません。

自分の選択は、間違ってなかったと思いたかったのと、母の反対を押し切り戻ったので、絶対に辛くてももう故郷には、帰れないのだから、幸せになろうと努力しました。

再び離婚の危機

倉敷に来て15年して、主人が脳出血で倒れてしまい、再び私の苦労が始まるのですが、これも全て神が決めた、自分の人生だとは思いますが、今となっては「災い転じて福となり」ではありませんが、自分の人生は自分の努力で、切り開いて行けると通感してます。

友人に「どうしてご主人が倒れて、生活が成り立たなかった時に、別れなかったの?あの時ならまだ若かったから、やり直せたのにそしたらもっと、幸せになってたかも知れないのに…」と聞かれました。

本当は、苦しい時、辛い時、何度も逃げ出したい、何処かへ行ってしまいたいと思いました。

けど、私には病気の主人を、どうしても見捨てる事は、出来ませんでした。

もし一人で逃げても、きっと一生悔いが残り、毎日自責の念にかられ、もっと精神的に辛くなるのは、わかってたので、やはり共に乗り越えようと思いました。

今は、主人も半身まひは残ってますが、平穏に暮らしております。

今でも、あの頃の思い出話をすると、主人は大粒の涙を流します。

きっと、主人は私より何倍も辛く、苦しかった事でしょう、まだまだ裕福ではありませんが、以前の暮らしを、取り戻せた事が今は幸せに感じます。

自分が、選んだ伴侶です。

これからも苦楽を共に歩み「お前と一緒になって幸せだった」と言われたいです。

この先もしも私が、介護状態になったら、その時は宜しくお願い致します。

今日も、最後まで読んで頂きありがとうございました。

ABOUT ME
miu
ご訪問頂き有り難うございます。 当サイトを運営してる、倉敷市在住の女性です。 64歳でブログを始めて、ブログ歴6年目になりました。 脳出血で、左半身不随になってしまった主人を支え、22年間Wワークで、日々奮闘しておりましたが、最近は本業とブログで生計を支えております ブログは初挑戦でしたが、同世代の方がホッと一息つける様な、サイトを目標に、お役立ち情報を発信しております。