おはようございますmiuです。
今日は台風の接近で大雨が降り、土砂災害が起こる危険性がある為、私の住む倉敷市の広範囲に、今朝6時から避難指示が出ております。
幸い私の家の近くには山や川はないので、こうしてブログを更新できておりますが、すでに避難されている方は大変だと思います。
この雨で被災地に、二次災害が起こらない事だけを願っております。
この時期は選抜高校野球も、熱い戦いを繰り広げていますが、さすがに今日は中止でしょうね
私は住まいは倉敷ですが、生まれは和歌山なので智弁和歌山を応援しております。
主人は大分の、柳ケ浦高校出身なのですが、今年は残念ながら大阪の桐蔭に負けてしまいました。
今年も智弁和歌山が3季連続の甲子園を決めました。
とっても嬉しいですね
どんな試合だったのか見てみましょう
智弁和歌山が甲子園出場決めた
第90回記念センバツ高校野球大会は、大阪桐蔭が史上3校目の春連覇を、達成して幕を閉じました。
智弁和歌山は、24年ぶりの優勝を逃したものの、東海大相模との準決勝で、春夏通じて史上初となる2試合連続の5点差逆転勝ちと、1試合で4点差&5点差を逆転しました。
「これぞ、智弁和歌山」という打撃戦で大会を盛り上げ、選抜大会準優勝の智弁和歌山が、3季連続の甲子園を決めました。
3点先行されながらも追いつき、2点リードで九回へ持ち込みます。
ところが市和歌山の代打・林に平田が同点2ランを浴びてしまいました。
その裏、智弁の3番林は遊ゴロで、全力疾走で送球ミスを誘うと、捕逸、バントで三進した際には「小3以来」というヘッドスライディングを見せました。
「気迫です。自分が1本打っていれば楽に勝てたのに」
2年生6番の黒川は「あの林さんが泥臭いプレーを」と感じたそうです。
きっちり右犠飛を放ち、林を迎え入れました。
この時、主将の文元は号泣し、エース平田も「みんな、悪かった」と泣きました。
「苦しい試合で選手は成長する。甲子園ではやってくれるでしょう」と高嶋監督のコメントです。
この1年間の公式戦で敗れた相手は大阪桐蔭だけです。
智弁和歌山の黒川史陽はどんな選手?
※黒川史陽(ふみや)三塁内野手
黒川選手は、2年生ですが、もはや代役ではなく主役でした。
昨秋の試合の時に、右肘の手術で不在だった主軸の、林晃汰(2年)に代わって3番を務めました。
伝統の強力打線を1年生ながらけん引しました。
180センチ、80キロの恵まれた体格を、生かした鋭いスイングに加え、柔らかさも兼ね備えております。
法隆寺国際(奈良)との、近畿大会準々決勝では、1打席目で「強引に引っ張ったら引っかける」と初球の変化球を、逆方向への左翼線二塁打にすると、第2打席では一転、内角の直球を強振し、右翼席に運びました。
状況に応じて広角に打てるのが、打率4割3分9厘の高打率を残す理由です。
「ええ技術をもっとる」と甲子園通算最多64勝の高嶋仁監督の評価は高いです。
黒川史陽選手の育った環境は?
黒川史陽選手は、奈良県出身で父の洋行さんは上宮(大阪)の主将として、1993年のセンバツに出場し、2回戦の横浜(神奈川)戦で、サヨナラ打を放つなど優勝に貢献しました。
また兄の大雅さんも日南学園(宮崎)で、2016年春夏ともにベンチ入りした甲子園一家です。
「物心がついたころにはバットを振っていた」と言い、中学時代には野茂英雄氏が総監督を務める「NOMOジャパン」の主将を務めました。
父は母校を薦めましたが、子どもの頃にテレビで見た「強打の智弁和歌山」に憧れて智弁和歌山高校に進学しました。
そして1年春からベンチ入りし、昨夏の甲子園では二塁打を放ちました。
凄いですね!
野球少年たちはこうして、遠方から親元を離れ、強豪校に入学して活躍しているんですね
球児たちの熱い思いが伝わってきます。
黒川史陽選手の目標は?
黒川選手の自宅には、父が活躍したセンバツの写真が飾ってあります。
これを見るたびに「父さんに負けたくない。優勝したい!」と闘志が湧くそうです。
親子2代での頂点を目指す、黒川史陽選手のこれからの活躍を期待します。
今日も最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
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