沢田研二がザ・タイガースのトップアイドルだった!グループサウンズ黄金時代を築いた

 こんばんはmiuです。

私達の世代はザ・タイガースのジュリーに夢中でしたが、若者からは「ジュリー?誰?」と言う声が聞えてきそうですね

今日は沢田研二さんがトップアイドルで、一世風靡したあのGS黄金時代を振り返ってみました。

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ザ・タイガースが結成されたきっかけは?

ザ・タイガースは、1965年7月に京都で高校生の遊び仲間だった、4人(岸部修三、森本太郎、高橋克巳、人見豊)により「サリーとプレイボーイズ」が結成された事から始まります。

同年12月には京都のダンス喫茶「田園」に、出演していた “サンダース” のヴォーカル、沢田研二をスカウトし、グループ名を「ファニーズ」と変更しました。

1966年2月からは大阪 “ナンバ一番” の専属バンドとなり、ローリングストーンズのカヴァーを、主に演奏をしていました。

そんな彼らには直ぐに、ファンクラブが結成され、その数は数百人規模にまで膨れ上がりました。

その後”全関西エレキバンド・コンテスト” に出場し、優勝という快挙を遂げました。

そして瞬く間に “ナンバ一番” でトップに君臨した彼らが、内田裕也の目にとまり、渡辺プロダクションにスカウトされました。

東京進出が決まると “ナンバ一番” では “ファニーズさよなら公演” が催され、ファンに惜しまれつつ1966年11月9日に上京しました。

ザ・タイガースのメンバーは、京都の若者達だったとは知りませんでしたが、私もその当時京都でOLをしてまして、「田園」にも行ったことがあるのでとても懐かしいですね~

ザ・タイガースの名づけ親は誰?

11月15日、フジTV「ザ・ヒット・パレード」に、出演の為の収録に参加(※11月29日放送)し、TV初収録のその日に、関西出身ということから熱狂的 “阪神タイガース” ファンの作曲家、すぎやまこういち氏によって、バンド名を半ば強引に「ザ・タイガース」に、変更させられたという出来事があったようです。

「ザ・タイガース」は、作曲家のすぎやまこういち氏が、名づけ親だったんですね

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グループサウンズの黄金時代を築いた

1967年2月、「僕のマリー」でレコード・デビューを果たしました。

特にヴォーカルの沢田研二は<ジュリー>の愛称で、数多くのファンから絶大なる人気を得ていきました。

更に「シーサイド・バウンド」の大ヒットにより、彼らの人気は爆発し、「モナリザの微笑」「君だけに愛を」「花の首飾り」など次々とヒット曲を放っていきました。

中でも「花の首飾り」はオリコンチャート1位を記録し、ザ・タイガース最大のヒット曲となりました。

現在もカヴァー曲として、唄いつがれているいい曲ですね

ザ・タイガースが解散した

グループサウンズの王者として、君臨していた彼らですが、GSブームも去った1971年1月、日本武道館での「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」を最後に解散しました。

ザ・タイガース同窓会として復活した

その後1981年11月にザ・タイガース同窓会と、銘打って再集結し「十年ロマンス」「色つきの女でいてくれよ」などのヒット曲をリリースしました。 (但し、瞳みのるは完全に芸能界から引退したので不参加)

2011年、ピー(瞳みのる)は40年ぶりに芸能界に復活し、9月からの全国ツアー『沢田研二 LIVE』に、森本太郎、岸部一徳と共にゲスト参加する事となりました。

2012年1月24日、武道館で開催されたファイナルコンサートでは、シロー(岸部四郎)が参加し後期メンバーが全員揃っての熱唱で、その時企画のツアーは大成功となりました。

 2013年12月には、ザ・タイガース』のオリジナルメンバー5人が、再集結し44年の歳月を経て完全復活、全国ツアーを開始しました!

沢田研二がソロデビューした

ザ・タイガースは、71年1月にグループを解散し、その後沢田さんは、ロックバンド「PYG」を経て、71年11月にソロデビューしました。

そして「時の過ぎゆくままに」などヒット曲を連発し、77年に「勝手にしやがれ」で日本レコード大賞を受賞しました。

また俳優としても活躍し、映画「太陽を盗んだ男」(79年)では報知映画賞・主演男優賞など映画賞を総なめしました。

今回のコンサート中止の件では、ツィッターでファンが「勝手にしやがれ」と激怒してましたが、この曲も忘れられない1曲でしたね

本当にあの頃が懐かしいですね~

若い方も一度、沢田研二さんの曲を聴いてみて下さい。

きっと魅了されますから…

今日も最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

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